大盛りへの憧憬

子どもが産まれ、子どもが産まれるまで知らなかったことが押し寄せている。

 

その中でもわりと地味なやつで、「授乳をしているお母さんは通常の1.5倍くらい食べる(べき)」ということがあります。とにかくお腹が減る。

それによって、憧れの世界を垣間見ることができました。

 

思えば子どもの頃から、大食い番組が好きだった。街で外食すれば、どこかのテーブルへと運ばれる「大盛り」が羨ましい。

たくさん食べる人は、魅力的。

たくさん盛られたごちそうは、素晴らしい。

私は元々、ごはん少なめ を頼む一派ですので、そんな夢の世界を目を細めて眺めるしかないのです。

 

しかし今、夢の世界への切符を、思わぬ形で手に入れた。

今の私は大盛りを頼める。味玉サービス券を使える。ajito ism でリゾットを食べられる。まさかとは思うが、ビュッフェで元が取れることもワンチャンあるかもしれない。

 

授乳期間というタイムリミット、子連れというハンデ。しかし確実に、私は新しい地平線に立っている。 

片手には小腹が空いた時のために、薄皮クリームパンを持って!

 

 

 

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*ajito ism はおいしいラーメン屋で、食べ終わった後に「リゾットください」というと、食べ終わった器にご飯や卵や追加つけダレなどを入れてくれ、旨いに決まっていますが、少食の人は並完食もけっこうギリギリなのでリゾットは絶対食べられないことで知られています

2007年初春、ブリティッシュ・エアウェイズの

飛行機。とっくに消灯され、あらかたの客がぐっすり眠る頃、とにかく激しい空腹でどうしても眠れない。
機内はだいたい到着地の時間に合わせて消灯したり食事を出したりするので、それについていけなかったのかもしれない。

と、すこし前の方で、何やらカップ麺を持ってふらふらしている乗客がいる。なんか、カップ麺もらえるんじゃないの。え、まじで。すぐ行く。
給湯室エリアに行くと爽やかな外人がニコニコとカップヌードルシーフード味にお湯を入れて渡してくれた。
自席で静かにすする。
空腹もあいまって、もう、物凄く旨い。旅行中ぜんぜん気にならなかった「日本の食べ物への懐かしさ・愛おしさ」が爆発する。ほとんど泣きながら食べる。

気がつくとそこかしこで麺をすする音がし、シーフードヌードルの匂いが充満する。寝ている人もシーフードヌードルの夢を見ているに違いない。我々は一丸となってシーフードヌードルを食べた。とても静かに、無心に、泣きながら、日本へ向かいながら。

準備をし、家を出て、駅まで歩く間、

ほんの少し気持ちが緩み、思考が発散していくかんじ。
一つの目的に向かって考えるのではなく、なんとなくフワフワと色々なことが頭に浮かんでは消える過程で
今日いちばんのひらめき、天啓、つまりは忘れ物に気づくということがあります。

忘れ物に気づいた、それは喜ぶべきことでありながら、人は傲慢な生き物ですので
「なぜもっと早く気づかなかったのであるか」と打ちひしがれるものです。

そうして、来た道を戻ることをあえて選択し、重々しく玄関のドアを開けた、この疲れ果てた勇者にはいたわりをもって接してほしいものです。
「2回も忘れ物を取りに戻ってきたね」という話をするのは、傷が癒えたころにしていただきたい。


大学を卒業するころまで、ろくに遠出をしなかった私も、年齢を重ねて旅行もするようになり、
近頃は立て続けに飛行機で移動するようなこともあり
すっかり旅慣れてきたせいで、本当に旅を舐めている節があります。

建築大家・隈健吾氏が、飛行機の「手荷物」におさまる荷物だけで世界中を飛び回る、という話に感化されて
ほとんど最寄りのコンビニに行くような装備で2泊3日のみちのりへ向かうこともあります。

そうすると、ほら。色々と準備が足りず、結局家へ引き返してくることになるのです。

明日もきっとそうなる。そう思うと不安でなかなか寝つけません。
明日もきっと、2度ほど家へ引き返すことでしょう。
ああいやだ。

おやすみなさい。

ねっとりしてない焼き芋を食べたい

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焼き芋屋を見かけると、100%買ってしまう。

去年引越して、車がきわめて入りにくい住宅街に居を構えてから、焼き芋屋は遠い存在になった。それでも今シーズン、三回焼き芋にありつくことができたのは僥倖というほかない。

ところで焼き芋、さいきん食べたことありますか。記憶の中の焼き芋と比べものにならないほど、とてもおいしいです。ねっとりしている。もの凄く甘い。

ただ、違いすぎて、これじゃない感がすごい。

仰天するほどおいしい。でもなんか違うな…。こんなシットリしてたら、バターを塗る余地がない。いや、おいしいんだけど。おいしすぎる。いい意味じゃなく、切ない意味で。

ああ、これは。老人たちが言っていた、トマトの青臭さが無いとか、ミカンが甘すぎるとか、梅干しの塩加減がほどよすぎるとかいうやつ。
こんなトマトじゃ塩を振る余地がないって、たしかに言っていた。

じいさん、とうさん、やっとわかりました。
私も、やっとこちら側に来ました。
ああ、ねっとりしてない焼き芋が食べたい。バターを塗って、のどに詰まらせながら。

情報量に対する体力というのがある。

たしかに体力と呼べるようなものがあると思う。

世の中には情報をたくさん仕入れる人がいる。新聞を読み、ニュースを見て、Googleアラートを駆使し、数十サイトをRSS購読、FacebookTwitter、話題の本はだいたい既読。
こういう人たちは、マッチョ。筋肉量があり、体力がすごい。ITを使いこなして比較的ラクにやっている場合は、細マッチョ。

いっぽう、相対的に、体力が弱い人もいます。私です。
本はゆっくり読み、わからなければ何度でも戻る。テレビに集中力を奪われて、あなたの声に気づかない。気づいても返事をする余裕がない。会議が二時間を超えると情報過多で吐きそうになる。

きっと、情報体力が強い人にとって、ひとつひとつの情報をさばくことは容易いのだろう。情報体力が弱い人は、ひとつひとつの情報に打ちのめされてしまう。パンチをくらう。真面目に受け止めすぎる。ある意味、繊細。感性豊か。一を聞いて十を知る。人間らしい。人間らしい、本来の姿。相手を思いやる、そんな人間らしさ。

そうなってくると、なんとなく情報筋トレ(速読、朝活など)をする気になれない。あなたの言葉をひとつひとつ真剣に受け止めて、あなたの気持ちを十二分に推し量りたい。

堪えきれず嘔吐するとしても。

無人島というのはたぶん凄いところで、

きっと「⚪︎⚪︎さんと無人島で二人きりになったら、寝るか寝ないか」という問題は実際的にはありえなくて、相手が誰であれ「無人島で二人きりになってから何日目に寝るか」という問題になるのではないか。
種を存続させる本能としてはもとより、精神的にも唯一の拠り所になるし、他の娯楽は少なく、生命は危険にさらされ続けている。他の人と比較してはじめて生まれる評価ーー外見にしろ、内面にしろーーは、時間とともに無意味になる。時間が解決することは、いつだって大きい。
時間さえかければ、必ず誰とでも寝ることができる。無人島はきっとそういう場所だ。

とはいっても無人島というのは桃源郷のようなところがあって、現実世界で無人島と言われる場所は別に無人ではない。観光客がざわざわと入ってきてしまう。サイパンにあるマニャガハ島というところは、時間やお金をあまりかけずにとても素晴らしいビーチを満喫できる、ぜひ立ち寄るべき「無人島」だけれど、連日アジア人が大勢訪れては、シュノーケリングやダイビングやパラセーリングをして、あるいは砂浜でビールを飲み、用意された鉄板でバーベキューを楽しむ。あの小さな島で、人の姿を確認できない時間と場所は、365日、どこにもないだろう。
他の無人島も、パラセーリングはできないかもしれないが、だいたい然り。

どうせ無人島があったところで、そのまわりは「有人海」に囲まれている。二人きりで過ごす周りで、漁船、ダイバー、潜水艦、シェールガス掘削、パイプライン敷設、洋上デモ、豪華客船、水上バス、ときには海上で花火、などということになるとぜんぜん無人ではない。無人海あっての無人島。
いつかあなたと二人で行きたいのです。

市のスポーツ施設なんかを管理しているんです。

仕事のようすを問われ、
後輩は笑いながらそう言った。
 

謝ったり、そういうのばかりです。
こないだも利用者の方が施設を汚してしまって
施設の人に怒られて謝ってきました。
私の出身校の後輩だったらしくて、
ちゃんとしろって言われましたよ。
 
 
そんな無茶な。
謝るべきなのは利用者の方で
あなたはちっとも悪くないのに
理不尽な人があったものだね。可哀想に。
 
 
「そういえば、
オンライン予約システムがあるよね?」
「はい。ありますよ。」
 
 
私はそれを使ったことがある。
悪夢のように使いづらいのだ。
 
インターネットを一度もしたことがない人が100人集まって、
予約システムに関する伝言ゲームをした結果、
100人目の人が半日で作ったような感じだ。
苦笑して私は言った。
 
 
「すごく使いづらいよね」
「そうなんです。それで最近リニューアルしたんですよ」
 
 
私はそれも知っていた。
なので少しためらったが、結局「知ってるよ」と続けた。
ためらった、というのはつまり
信じられないことが起こっているからだった。
 
 
「リニューアルして、更に使いづらくなったね」
  
  
後輩、笑うしかなくて。夏。