環境になる

自分が人生の主役みたいに考えたことはあるだろうか。私はある。ずっとそうだし、今も基本的にはそうなんだけど、最近少し捉え方が変わってきたので、別に面白くない話なんだけど書いておく。

 

子供が生まれてから、自分はこの人にとっては環境なのだなとふと気づいた。私がちょっとしたことですぐ怒鳴ったり手を上げれば、こいつが将来どういう人間になるかとか、そういうのが決まってくる。

 

考えてみれば子供以外にとっても私はずっと環境なのだった。会社の同僚、隣人、いまレジで私の買ったものをレジ打ちしてくれている人。その製品を作ってる会社…になってくると「私が環境」という意識は希薄になるけれど、まあ理屈で言えば環境の一部を確かに成している。

 

そうすると、もしかすると、自分がずっと抱いていた「環境がこうだったらいいのに」という思いを、実現できるのは自分だということじゃないですか。

お母さんはもっとほっといてくれたらいいのに。会議は短かったらいいのに。必要がなければなくせばいいのに。もっとお互い優しくしたらいいのに。お店の人にもビル清掃の人にも、丁寧にお礼を言ったらいいのに。

 

その考えにもとづくと、「主役の私がやりたいようにやる、気に入らなかったら違う環境へうつる」というやり方とはちょっと違って、私は環境にこうあってほしいというのを、自分で体現していくことになる。そこには一定のキツさがあり(子供に優しくするのは想像よりずっと難しい)、でもほこらしさというか、美意識みたいなものがある。

 

「環境」というのはでかすぎる言葉で、文化とか政治の状況とか国とか、あとまあ社風とか、そういうのを背負い込むつもりはない。隣にいる人がどういう気持ちになるかとか、これをやり続けると将来的にはどうなるかとか、それに関する本質だったり法則だったり、私が考えを及ぼすことができる範囲は今のところ、その程度のことだけれど、さしあたり適当な言葉が見つからないので、ここでは環境と呼んでいる。

 

ちょっと前に東京ステーションギャラリーのルート・ブリュック展を見てきた。ブリュックさんは、30代くらいまでは奔放というか、めちゃくちゃな作品を作っている。思いのままにギザギザーっと描いたり、作品の切断面もいかにも伸びやかで、荒い。

でもある時急に、パターンや反復、均質、ルールに従った、緻密な造形になる。一見「どうしたの?何かあったの?」みたいな感じになるが、年を取るごとにその凄みがどんどん増していき、まさに環境というか、世界を構築しているような感じになり、圧倒される。最晩年は巨大な作品も多くて圧巻なのだが、サイズ的に小さい作品でも環境力(としか言いようがないもの)が強すぎて絶句する。わかりやすくモチーフもでかくなっている(20代の頃は静物や動物だが、40前後で都市、最晩年は流氷など)。

 

勝手にのびのびやってるとこからの転機、みたいなのが、ブリュックさんにもあったのだろうか。あなたにもありますか。こういうぼんやりとした未熟な話を、誰かとダラダラとできたらいいなと思うのだが、その環境はまだないのだった。